自我と自己

22:32から。

直感と妄想の類似性とか、自己とはとかを考えながら、休日ではない一日を過ごした日。

出勤の道すがら。

いや、休日なのに出勤するのがオカシイのだが、ちょっとややこしいお客様の案件でこれを落とすとてんちょーが大変なことになるやつがあったもんで。

連絡が全然繋がらなくて、店舗の人達は諦めムードだった。

結果的にひょんと本日、連絡が帰ってきて、成約となった。

個人的な直感としては、まぁなんとかなるだろうな、で案件落としたてんちょーに対して、これが「信頼関係というものですよ」って嫌味を言うシーンまであった。

現実としては、まだ完了はしていないながらなんとかった。

その為の休日出勤。他のスタッフに相手できるお客様でもないし。

「これが信頼関係です」という嫌味は、僕がてんちょーとそんなに仲良くないもんで、現実化しなかった。僕は別に人に嫌味を言いたい訳では無くて、仲良くなると、当人の語用が現実と一致していないよねという指摘みたいな意味合いで使っちゃう。

嫌味じゃなくて、当人の鏡ですよという意味合い。

実際、僕は他者がどうであるかなんて、あんまりどうでも良い。

てんちょー、僕がこの案件を落とさなかったもんで、スキンシップで肩を叩くまでしてきた。

別に嫌だとは思わないが、こいつ調子が良いな~とは思った。店舗の売上的にやばかったのをせき止められて、俺が社長に責められなくて嬉しい気分がやたらと出ているんだなと。

僕は、人と仲良くなると、その人が見ないようにしている闇みたいな不具合に感応してしまう。なので、ほんとうは、あんまり僕に近寄り過ぎるのはよろしくない。ちゃんとその辺を解消済みの人なら構わないけども。

仕事の話はここまでで良いか。

道すがら。

「自己」の概念を考える。

色んな視点がある。社会とか他人とか。

人のDNA的な習性として、他人の目によって行動が変わるという話がある。

目のシールを貼るだけで、人が社会的に良さげな行動を取ることになるみたいな。

人ってこの、「外からの目線における」ところで、「自己」を定義していることが多いと思う。

個人的には、ここはどうでも良いと思っている。

だって、外からの目線なんて、タイミングとか気分によって自分の現象が変わるんだから、たまたまそこしか見ていない人の評価を「自己」とする意味が分からない。

この延長で、「自己」の定義は、もっとも観測している自分の目が優位なんだろうな。

このまなざしが「自己」を規定しているのが一般だが、なんで見ているだけでコントロールしようとしないんだろうとは思う。

これって想像するに、アイデンティティは不具合が前提とされているから。

社会的に不適合である自分を、そのままで良いとする感じ。

僕の「自己」は僕の意識のコントロール下からは随分と離れてしまったが、気分でできないみたいなことを他人に投げるみたいなことは無い。

要は、自己を定義しているのは、観察し放題な自意識だということ。

このまなざしからは離脱できないし、この意識が当人の行動を決めている。

僕自身の観測だと、当人、一般的な因果で動いていない。

まずもって割食いだし、社会的な因果で動こうとしたら身動きできない、という意味で社会不適合者だと思われる。

僕が社会に合わせたら、てんちょーとか経年女子にお説教したくなる。

お前ら会社にどんだけ甘えてんだとか。

僕の定義がこれだから、それほど社会的にどうかみたいなことは、人と関係するときに気にしない。

ただ、僕の時間を奪う人はどれだけ好きでもアウトだし、冒頭に戻ったお客様も、価値観としては分かるけど、一切関係したくない。

相手の時間を蔑ろにする人は、どれだけ言葉で謝罪したところで返ってこないから。

という意味で、うちの店舗でも上層部とは一切関係したくないもんで、僕の素朴な言葉は語れない。僕の素朴な言葉だと、おめぇら、仕事を私物化して何がしてぇんだとか言いたい気分。

僕の本音を聞けるのは、僕とちゃんと人間関係の人。

へい、ここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

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