21;53から。
本日は早めにビールを3リットル飲んで、さっさと寝る予定。
休日なのに頭が痛い。
基本的に、そんなに疲れないのだが、疲れないからと言って使われて良いはずは無い。
この下りは別に良いや。
単に僕が困難を選んでいるだけだと思われる。
苦労は経験値が培われるから。
ちなみに、料理もそう。料理は時間かかるけど、その時間は当人がちゃんと自分の為に遣っている時間。
本日2回目の水田さんのミートソースを作った。
2回作ったからだいたい分かった。次はアレンジできる。セロリ増やしたら薬膳っぽくなるなとか。
料理は家事として苦労と捉えられることが多いのだが、これって、「苦労に価値がある」という価値観だと思う。変な話、家事は理不尽的な義務、みたいな。
どんな物事も、捉え方次第というか、その後にどうするか次第だと思っている。
料理に対しても、失敗して良いし、そのままで無ければ良い。
この、「そのまま」でずっと居る人と、波長が合わなくなってきているような気がする。
いや、たしかに、「変わらない自己」って、過去から積み上げた自分だから、どうしてもそこが拭えないのは分かる。ただ、それ、ほんとうに楽しいの? って思っている。
僕はもともと自己嫌悪系の人格だから、暗がりの人の気分は分かるのだが、「そのままの自分」を誰かに投げて、肯定されようとする小賢しさは辞めた方が良いような。
「そのままの自分」って、手触りが確かだから拠り所になるけれど、その自分を守る為に、環境が敵になることがある。自分にとって環境が理不尽だから、動かなくて良い自分が正当化される、みたいな。
少なくとも僕は、こういう意味で誰かを調律させたくない。
僕は自分が1人のときに滅茶苦茶動ける人財なことは知っているし、誰かが僕と同じ標準で動けるとも思っていない。
誰かに観測された僕は身動きが遅いらしけど、それは、僕を見ているその人と時間軸がズレているだけだと思われる。僕はその人達が観測できないところで滅茶苦茶身動きしていると思われる。
この当たり前が観測できな人は、僕と一緒に生きたところで、僕を奪うだけな気がする。
垂れ流しだからその恩恵をあずかっても良いけど、せめて一緒に生きているなら、もうちょっと変化してきてほしい。
ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。