公共の福祉

23:37から。

本日は2人して休みだったのだが、半日ほど別行動で1人まったり時間をいただいた。

半日あれば十分補給される。

まったり時間で、日本酒好きな30代OLの恋模様の漫画を読んでいたら、お酒が飲みたくなった。恋模様パートも面白いのだが、お酒パートが、作者さんほんとにお酒好きなんだろうなと読ませる。

ちなみに、タイトルはお酒と恋には酔ってしかるべき、みたいなやつ。

ということで、昼間からビール。

酔いってある程度までは気分。宵のビールはなんとなく大勢側だから、そんなに酔わないのだが、昼のビールって場違いのような背徳感で酔い具合が変わる。

満月さんに合流するために、散歩に出つつ、セブンイレブンでカロリーマシマシのビックポークフランクと麒麟一番搾りを買って、飲みつつ食べつつ散歩を続けた。

これ、平日の日中の人から、なんか変な人が居るなと見られるのだろうなと思ったのだが、

いやいや、歩きながら飲むビールは何処で飲んでも合法だし、人に迷惑をかけない範囲で楽しく生きれば良いじゃないとなった。

ここからは肉体を散歩させながら思考のお散歩。

これからの時代、色んな文化や価値観が流入しているから、「自由」なんて当たり前のことで、大事なのは「迷惑」の方よなって。

この「迷惑」の概念って、おそらく自分の基準からして迷惑だというのが普通。

自分が「迷惑」をかけていると想えるのは、相当なメタ的な人かお人好しか、自分に自信が無い人か。

この「迷惑」のセーフティーネット(安全網)は、国境を設定したままにしたいのであれば、きちんとそれぞれの国家が設定しないといけない。

国家のルールって何が決めているかというと、あんまり知られてないと思うが、「日本国憲法」というのがある。いや、憲法なんて学校で学んだよって言う人もいるかもしれないが、学習指導要領上、憲法のことなんてほとんど教えていないと思う。

三権分立とか、国民の三大義務とか、浅瀬の浅瀬でしか無いというか、あえてあんまり教えないようにしている風にしか。憲法学上は、国民に義務はない、みたいなニュアンスだったような。言い過ぎか。

ちょっと話がそれた。

僕が考えたのは、憲法上の「公共の福祉」という概念が再構築させる時代になってそうだなと。この概念、僕、法学部に入ってから知ったのだが、高校の公民の教科に入っている言葉だっけ?

ざっくり言うと、憲法上の自由、表現の自由とか信仰の自由とか一般的行為の自由とかは公共の福祉の範囲内で公私できるみたいなルール。ただ、これ憲法が国家の恣意的なルールの濫用を制限する法律ということからすると、個々人に課せられた制限ではなくて、そういう下位基準を作って下さいねというお話し。

例えば、表現の自由で言えば、名誉棄損罪とか、侮辱罪とか、個人情報保護法とか、今で言えばヘイトスピーチは「迷惑」だけど、それ以外ならOKみたいな枠組みを設定しましょうねと。

かつては、というか国家が一枚岩の時代は、「公共の福祉」は国家の場の論理でできたのだと思う。要は権限を持っている役割りの人のものさしが全て。

今でも権限の論理はある。

例えば我が職場とか。恣意的なのは良いけど、せめて機嫌ではなく一定の基準にしてほしい。

自分の基準で動けないんだったら、せめて本社の基準で。

ここもちょっとそれた。

これからの時代は、基準が一元化ではなく多様化だから「迷惑」をきちんと合理的に説明するというか、場の論理の時代。

例えば、お友達のコンビニ店長が、子供がワンピースを立ち読みしようとしたら、「ここではしないでね」と追い払っていた。僕はコンビニ=立ち読みして良い場所というルールに馴染むのだが、駄目な場所もあって良い。

ここに、「他のコンビニだったら良かったのに」という論理を持ち出す人は、多様性の時代に着いて来れていない。いや別にそういう化石になりつつある価値観に生きても良いけれど、せめてその価値観で他人に「迷惑」はかけないでねって思う。

場の論理というか、多様性を突き詰めていくと、場って関係性の集合地点だから、そろそろ「家族観」も変わってくるよねって。

多夫多妻制でも個人的には良いと思う。

僕は単純に日々接する人が増えると気を遣うことにエネルギー遣うから無理だけど。

夫婦制度が凄いロマンスだって捉えるのもロマンティックで良いと思うけど、僕はごめんけど、この制度って、国家が人材の再生産の管理の為に都合良く整理した概念だと思っている。

だから、結婚しても子を成せない身体機能の人が、なんか変に差別される。

今や労働力はAIもできるし、外国からの補充もあるし、国家の為に(親に孫を見せるために)、子を成す必要も無い。

民法における「家族」ってこれからどう設定すれば良いかなという話であって、僕がこのステレオタイプの家族観に傷付いた訳でもないので。

何かを書いたら(言ったら)、それを気にしていると思われる世界観ってなんなんだろうな。

そんなに人って、思索をばらけさせられないものなのだろうか。

どうでも良い最後。

僕は、結構人のここだけの話を聞いていて、ほんとにここだけの話だったら、日記にも書かないし、親しい人にも話さない。でも、僕は自分がここだけの話と思って言ったことは平気でだいたい流れるから、話すだろうなと思った人には語らなくなった。

別に人に話しても良いけど、そんな他人に共有するような存在なのかって。

これって、満開の桜を撮って映えさせる自分の世界の道具でしかない。

人に僕のことを話すような人には口下手になる説はアリかもしれない。

おやすみなさい。

良い夢を。

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