22:29から。
文体と世界観のことを考えながら出勤。
よく、思考が言葉で自己問答になるという話を聞くのだが、個人的には自身に対して言葉は不要な感じ。自分に対して何かを説明する必要も無いし、自分を掘り下げるときにも言語は不要。だって、自分が見ている世界をあえて自分に対して言語化する必要がない。
そう、言葉で説明しなくて良い関係だと、言葉を尽くすという意味合いにおける、語彙の収集に欲求が向かわない。
言語が必要になるのは、世界観が不一致なところのパズル合わせというか、妥協というと悪い意味になるけども、なんとか繋がろうとする試み。
言語を記号と捉えたのはソシュールさんとかヴィトゲンシュタインさんとか大家が居るけれど、個人的には、記号すらあんまり客観的でないよなと思う。
記号だって、それの意味を理解している人にしか通じないじゃん。ってことを車運転しながら想う。信号とか停止線って記号だけど、これが誰にでも通じると思い込めるか。
いきなり何の話や。
という感じだが、自分の世界観をどうやって他人に表現するのかということ。
僕は、割と言語上、わりと説明上手と評される。
この意味はちょっと分かる。相手の「気分」とか「感情」には付き合わないけど、語彙は合わせられるもんで、説明の仕方をいちいち変えられる。
人を定型に捉えない余裕があるもんで、定型文なんて無い。
この語彙の取集は、僕が自分の世界観を全てだとはしておらず、世界を「読む」ことを主目的としているから。
例えば、本日のお客様、すんげぇ細かかった。
たぶん、僕でなかったら面倒臭いお客様なのだが、個人的に気持ちは分かる。
僕は自分の世界においてあんまり細かいことを表現しない。
だって、世界からメンドクサイ認定されるから。
でも、話しが通じる人だったら、色々投げて良いなという細部を表現してもらう。
ここは、実際に現実化したいという言語化ではない。
言えそうだから言っておこうと、クレームは全然違う。
僕がこの語彙が分かるのは、僕もその世界観で見れば、この人以上に細かく見られるから。
細かく世界を読むのはつまらないからやっていないだけ。
もうちょっと言うと、僕は誰かに無駄に世界を投げたところで、良い人生劇場になると思って居ないから、お客様が無駄におねだりしてくることについて、 僕を無駄に搾取しているだけでお友達にはなれないと思っている。
僕も、やろうとすればこの世界線で生きられるなって。
ただ、誰かに自分を投げて自分が楽する人生に全く面白みを感じない。
この劇場の表現が世界観。
僕はお店でお金を遣っているから、傍若無人に振る舞って良いとは思わない。
対価としてのサービスが当たり前だとは思わない。
これで、人間を認識できるような人は、終わっておる。
でも、こういう風にしか人間を見れらないことが、基本的には当たり前なのだろうなと。
僕は余裕があり過ぎる。
この余裕は1人暮らしで無茶苦茶サバイバルしたので、生活上のヤバいことはだいたい経験済みだもんで。
ただ、僕が1人で過ごすより面白い関係なのかということは考えている。
僕の人生劇場、何人かパートナーは居たのだが、誰も僕の世界観に付き合ってくれなった。
どの恋人さんとの別れも、僕は泣き散らかした。
僕が足りなかったのだろうなという語彙の世界観。
僕の人生劇場のパートナーさん、全員、僕にとって足りなかったと思って居ない。
ここまで。
もう寝る。
おやすみなさい。