他人からの承認で生きないこと

23:19から。

そういえば、昨日の日記に、一昨日のことを書いていなかったような気がする。

ランチにパスタ屋さん、ディナー焼き鳥屋さんに行ってきた。

夜ご飯のシェフは、もはや芸術レベルだからまだ追いつけない。サラダのドレッシングの完成度がヤバイ。調味料の問題もあるけれど、このシェフ、絶対料理を楽しんで創っているんだろうなという味わいがある。

映えも凄い。

持論だけど、本当に美味しいご飯って、満腹にならなくても、満足できる。

満腹はあくまで肉体の生理機能であり、満足は人間的な部分。

僕、こういう人間的な部分で、十分だから、いちいち毎日満腹を求めなくなっている。

満腹は体がしんどいんですわ。成長期はとっくに終わっているから、満腹を継続したところで、身体が重くなることにしかならない(何か反感を買っている気がするが、僕の次のテーマは、きちんと反感を買いながらでも自分の世界で生きることだもんで)。

ランチの所は美味しかったのだが、アートレベルではないもんで、昨日僕が作ったローストビーフが前菜ビュッフェに入っていても遜色無い気がする。

自炊って、かつては「原価」が安いだったけど、安さを追求するんだったら、サブスクみたいに定期購入する冷凍のおかずの方がきっとトータル安い。

確かに外食は高いのだが、僕が外食をいつもするのが嫌なのは、お金の問題というより、身体が求めていない物を食べているなという感覚があるから。娯楽として食べ物を捉えて居ない。自分が作るときは娯楽がブレンドされているけども。

コンビニおにぎりは高いけど、栄養補給だと考えれば、普通に美味しい。

美味しさの基準が違う。コンビニおにぎりは量産性の基準で言えばアートだと思う。

物価高で、ちゃんとやっているおにぎり屋さんと値段が近くなってきているのが面白い。

物価高って、なんなのだろうな。

この前ボーナスが出て、僕の歴代で最大の収入になったのだが、全く達成感も喜びも無かった。単なる数値だから、いただいた分、誰に配ろうかなって感じ。

どんなに給料が増えても、僕の生活水準は買わない。

ちょっと買える本が増えるかなというくらい。一過性の贅沢にお金を使う気分が無い。

別にその価値観を否定はしないし、したければすれば良いんじゃないって感じだが、僕はもうそういう世界で生きていない。

僕はそんなことより、人生を楽しみたい。

という流れで、ふと思い出したこと。

「この人じゃないといけない」という感覚が、「好き」だとする人は、相手に依存している人。

僕も昔この感覚でパートナーとくんずほぐれつの時代があったのだが、「この人じゃないといけない」という観念の人ほど、相手の像が固定されて、人間として認定できなくなる。

端的に言えば、メンヘラ共依存だけど、もうちょっと細かく言えば、相手のことが自分にとって有利かどうか世界を観る人は、鏡として、相手からも同じように観測されるということ。

別に現実も非現実もマトリックスの世界観からすれば実感の問題だから、実感として「好きな人とはなんぞや」という話。

僕も実感が現実であるというネオ(ネロ?)の世界観が分かってきた。

僕が相手をどう扱うかは、相手が僕を扱うかに合わせているということを、きちんと認めないといけない。

僕と一緒に過ごして楽したい人と、一生過ごしたら、僕はその人の舞台装置としてしか存在できない。ほんとはもっと移動できた世界性を留められている。

っていうことを気にしないのが世界に生きるのが主人公の人だけど、生きている世界線が全然違う気がしてきた。

僕の世界に付き合えない人は、ごめんなさいする時期なんだろうなって。

相手に依存してないから、お別れは唐突に、でも仕方ない。

僕の世界は、社会規範とは関係ない所で、自分をまき散らかして相手を掬うこと。

そうしないとキモチワルイから、というだけ。

へいここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

PAGE TOP