本日も休日。
トイレ掃除をして、洗い物を片付ける他は、ごろごろしていた。
朝ごはんは、レンチン納豆ご飯と残り物とにゅうめん。
昼ご飯は食べきれなかった残り物の鶏むね肉のソテーサラダをレンチンご飯に乗っけて丼。
残っている物を減らさないと、新しい余白はできない。
ほんとはレンチンご飯を常備するのもそんなによろしくないと思っている。
無ければお米を炊けるから。
正直、1人で居る時間ではすることに対してはラグが無いから、ほんとうはもっと生活水準あげられると思う。一緒にどうこうしないと動けないモチベーションは無いもんで。
今の僕はただ、「やらない人の為にやりたくない」だけ。
これをやると、相手の人生劇場における都合の良い「道具」としか認識されない。
ここを突き詰めるとアレなので別の話題へ。
そういえば、夜ご飯は満月さんのリクエストで、アボカドとカイワレ大根と豚しゃぶのサラダと、手羽肉のレモン煮(圧力鍋)を作った。
スーパーに行ったらアボカドが全部固かったもんで、無理矢理レンチンして柔らかくした。
ただ、あんまり甘味が無い。いや、この組み合わせだったら、むしろ糖度低い方が最適解なのでは。じゅくじゅくのアボカドでは、甘味で調和がくずれそう。
さて、おかない。
本日ゴロゴロしながら、課金して漫画を読んでいた。
娯楽として読んでいるというか、ちゃんと自分の人生を同じ水準で読む。
だから泣ける。今日読んで泣いた漫画は、「盤上のオリオン」。
才能を持ってこの劇場にやってきた人の感覚って、昨日僕が書いたのでいうところの主観の世界なのに、それでも疎通しようとするところがなかなか乙。
僕、馬鹿にされなかったら、平気でアニメでも泣ける。
父親のお葬式では泣けなかったど(いきなり重い話だが、僕の中では同じ感覚)。
あぁいう場って、泣かなくてはいけない儀式というか、舞台装置感があってどうも。
葬儀のとき、僕が思っていたことは、「自分今日も寝ぐせスゲーな」とか、「同級生気を遣って全然話しかけてこないな」とかだった。こんなこと考えているのはけしからんと認識していたから、誰にも言ったことがない。
葬儀では、結局泣いたと思う。
棺桶に釘を打つのが何故か左手で無いといけない視界が涙で曇っていたことは覚えている。
僕は人の説明を昔から聞かないもんで、間違えて右手でやって、やっちまったなぁという感情の記憶。
ということを思い出した。
父親の退場に対する感情は、その1年後くらいに「流星ワゴン」という小説を読んでいるときに解放された。移入したのではない。ただ、僕の感情が書かれている、と、読んだだけ。
僕の解釈からすると、現実の儀式とコンテンツの境界線が良くわからない。
非日常に没頭するという意味では一緒では。
何が一緒かっていうと、心に響く塩梅。
例えば、他人の結婚式に参列するのは現実的に身体が動いてるのだが、そのうち忘れるのと同じという意味。
一瞬で離婚した、特に深い話もしていない幼稚園由来の当時の友人の新郎にスピーチを頼まれて、無茶苦茶草稿して、人前で話すことにも馴れていない当時にお酒をいっぱい摂取して読んだことを思い出した。
スピーチにはルールがあって、不吉な言葉は遣っちゃいけないらしいということを当時調べた。今となっては馬鹿らしいと思うけども、言葉をそういう時にしか重視しない気持ちは分かる。
文章は良かったみたいで、新郎のご両親には喜ばれたみたい。
僕としては、ただただひやひやしながら、定型文を調べまくった記憶。
ここで語られるべきは、僕の主観的な言葉じゃないから、語るべき言葉を模索した。
ここから。
ご飯の下処理をしながら、お風呂読書。
断片的な社会学の人の語り、ほんと好き。
飲みに行きたいくらい。笑
僕は社会学畑ではないけれど、世の中に埋もれている語りという感じは分かる。
僕の今の仕事も、当人個人の語りを聞いて、最適な商品を提供する感じだから。
今の社会を学問として観測するって、僕のような素人からすれば、無理ゲーと思うのだが、学者は凄い。
組み合わせで、ビジネス論の話も読んでいる。
たぶん満月さん、この講義をするとか言いながら読み切れないから、僕が先に読んでしまって、アドバイザーになった方が良いような。
個人的には、この系列あんまり面白くない感じ。
読んだところで、知識にはなっても、僕がそれを読んで行動とか認識が変わることにはならないという意味合い。
僕がこの領域で知識を収集したところで、試すことができない。
上層部という、当人が権限を持っているだけで、仕事を遅くさせる上層部が居るもんで。
そんで、「人はどうして言葉を話すのか」という本があった。
これを聞かれて、ちゃんとした回答できる人っているだろうか?
ちゃんと自分がオトナだと思っている人ほど当たり前過ぎて、これを聞かれても意味が分からないと思う。
言葉って、そもそもなんぞや?
読んでいる感じだと、動物で言うところの鳴き声の延長みたいな説があるみたい。
情報の疎通。
まだ冒頭だから、定かでは無いけど、僕だったらどういう結論にするかなぁということを考える。
僕の解釈だと、言葉の原初も今も「自分と他人を区分けする」為の道具なのではとう説。
僕、あんまり人の言葉、どうでも良くなっている。
そんなことより、僕の劇場にどう存在しているか。
かつて僕は気になる人の文章を知りたいと思った。
文章の良し悪しって、昨日書いた、「自分にとって」と「相手にとって」が共存しているって。僕も、1人で居たら特に言葉が無いから、この文章は読み手に合わせている。
ほんとは言語要らないなかで、漂流させているという意味合い。
(僕の読者なんてほとんどいないだろうけども。笑)
早いけど、もう寝よう。
おやすみなさい。